森林鉄道建設の背景
津軽森林鉄道は、1906年(明治39年)に着工され、明治42年に完成した日本で最初の森林鉄道である。
日本三大美林のひとつとして知られる津軽半島の「ひば林」は、藩政時代から「御留山(おとめやま)」として保護育成されていたため、豊富な資源を有していたが、明治初期においては、ほとんど手付かずの状態であった。
明治24年に東北本線、同27年には奥羽本線が開通し、その終点である青森市は木材や海産物の集散地として発展し、津軽半島のひば材も青森市へ集められ、鉄道により県外へ運ばれることとなった。
明治36~37年の日露戦争を契機として、国内の経済活動が活発化するにつれて、木材需要が増加し、国家財政に役立てる意味から、国の直営による木材生産を行うことが求められ、貯木場、製材工場、林道等の施設が盛んに建設されるようになった。
明治38年には、当時最大と言われた青森貯木場が完成し、翌年には全国初の官営製材所として、青森製材所が設置された。
当時の津軽地方の木材の輸送方法は、原始的な流送(管流、いかだ流し)であり、近距離では牛馬車によっていた。冬期間に雪ぞりによって山地から流送に適した地点に集められた木材は、春先の雪解け水により増水した河川に放流された。木曽川などの大河を抱え、通年で流送可能な木曾地方と異なり、水源から海までの距離が短く、急峻で水量の少ない河川しかない津軽地方では、流送できる期間が春先の増水期に限られた。また、水深が浅いため、流送による木材の損傷・紛失も多く、流送の途中で橋梁や耕地等に損害を与えることも多く、計画的な林業経営ができないほど輸送力は脆弱だった。
そして、この輸送力を飛躍的に高めるものこそ森林鉄道であった。
津軽森林鉄道の建設
津軽森林鉄道建設に当たっては、土木主任技師二宮英夫の設計指導のもと、次の2つの路線案が立てられた。
(1)石川越
木材の蓄積量が最も豊富で、しかも利用困難だった内真部(うちまんぺ)、金木、中里の国有林の利活用を図るため、内真部海岸から喜良市(きらいち)貯木場までをの24kmを直線的に結び、喜良市から中里までの支線8kmを設置する計画。
(2)六郎越
青森貯木場を起点として津軽半島を北上し、蟹田で向きを西に変え、津軽半島の中央山脈を「相の股隧道」と「六郎隧道」の2つのトンネルで抜け、十三湖畔の今泉で向きを南に変え、喜良市貯木場へ至る全長67kmの計画。
以上2つの案を検討した結果、利用区域の拡大と、機関車の能力を主眼として、「六郎越」の採用が決定した。
現在のこの2つのコースを車で走ってみるとよくわかるが、六郎越(現在は県道「鯵ヶ沢蟹田線」の一部)は比較的高低差が少なく走りやすいが、石川越(現在は県道「屏風山内真部線」の一部)は、標高こそ200m程度であるが、海岸からの距離が短いため山頂付近はかなりの急勾配である。この勾配では、鉄道の敷設は長大なトンネルで抜ける以外は無理であろう。
津軽森林鉄道の工事は明治39年6月に始まり、3区間に分けて実施された。蟹田-薄市間が最も早く、明治39年に始まり41年に完成した。続いて、薄市-喜良市貯木場間が明治40年に着工され42年に完成、青森貯木場-蟹田間が明治41年に着工され、42年に完成した。
この間、明治40年、ライマ社製シェイギヤード(シェイ式12.8tボギー式蒸気機関車)1両が蟹田に陸揚げされて組み立てられ、鉄道建設資材の運搬に使用された。
工事の完成は明治42年11月30日であり、3年半の歳月と62万円(現在の価値で約23億円)の費用を要した。明治42年12月20日に開通式が行われ、青森-蟹田間を初めて走ったのは、上記のシェイ式機関車であった。
明治42年には、ボールドウィン社製10tB1リアタンク機関車3両を購入し、明治43年5月から津軽森林鉄道の本格運用が開始された。運行期間は毎年4月下旬から11月までであり、冬期間は積雪のため運行を休止した。また、津軽森林鉄道が開通した当時、津軽半島の道路、鉄道は全く整備されていない状態であり、沿線住民の貴重な足ともなっていた。ちなみに、旧国鉄津軽線の青森-蟹田間が開通するのは、津軽森林鉄道が開通してからなんと42年後の昭和26年のことである。
その後の津軽森林鉄道
津軽森林鉄道の木材輸送量は、大正3年に年間で70,851立方メートルと最高を記録し、大正5年には機関車5両、運材貨車308両を数えた。その後昭和初期の経済恐慌を経て、昭和13年には第二のピークを迎えたが、第2次世界大戦の激化により減少した。
戦後の経済復興期の木材需要の増大に伴い、昭和26年には、津軽森林鉄道の本線と支線を合わせて、蒸気機関車10両、ガソリン機関車24両、運材貨車1052両と過去最大数を記録した。
しかし、昭和30年頃からは全国的に自動車による材木輸送がめざましく発達し、森林鉄道による木材輸送量は極端に落ち込むようになった。森林鉄道の自動車道への改良工事が行われるようになり、森林鉄道は急激に衰退した。
そして、昭和42年11月、津軽森林鉄道は58年に及ぶ歴史に幕を閉じた。
略年表
明治39年度 | 蟹田、大沢内間の設計調査。 |
明治40年度 | 機関車4両購入。小股貯木場、蟹田桟橋建設。 |
明治41年度 | 蟹田から今泉までの22,922mを開設。貨車100台購入。今泉停車場、蟹田機関車組立庫建設。機関車組立。 |
明治42年度 | 蟹田から後潟村左堰までの13,920mを延長開設。(36,842m) |
明治42年度 | 今泉から中里村大沢内までの10,640mを開設。(47,482m) |
明治42年度 | 大沢内から喜良市までの6,009mを延長開設。(53,491m) |
明治42年度 | 左堰から沖舘までの13,435mを延長開設。(66,926m)全線開通。貨車100台購入。 |
明治43年度 | 青森大林区署特別経営課津軽森林鉄道青森運輸事業所の設置。 |
明治43年度 | 沖舘、喜良市停車場に転車台、内真部に給水塔設置。 |
明治43年度 | 貨車20台製作。 |
明治45年度 | コッペリー機関車1台購入。貨車88台製作。 |
大正2年度 | 機関車1台購入。 |
大正9年度 | 利用課に移管。 |
大正12年度 | ドイツ製アーサー・コッペル10トン機関車1台購入。 |
大正14年度 | 青森営林署に移管。 |
昭和2年度 | 10トンアーサーコッペル機関車購入 |
昭和5年度 | 11トン機関車1台購入。 |
昭和6年度 | 11トン機関車1台購入。 |
昭和8年度 | 11トン機関車1台購入。4トンガソリン機関車1台を近川林道に転換。 |
昭和9年度 | 11トン機関車1台購入。 |
昭和17年度 | 油川飛行場拡張に伴い軌道を迂回路線に変更し、182m延長増。(67,108m) |
昭和21年度 | 青森営林署の津軽森林鉄道機工、製材、販売業務を局直轄青森森林事業場として開設。 |
昭和23年度 | 津軽森林鉄道の管理を北津軽郡と東津軽郡の郡界(六郎隧道西口)で金木営林署に分離。(事業場管轄42,5435m、金木営林署管轄24,391m) |
昭和24年度 | 青森森林事業場を青森運輸営林署に改称。(42,535m) |
昭和28年度 | 金木署管轄のうち中里署管内は中里署管轄に分離。(中里署管轄17,873m、金木署管轄6,518m) |
昭和35年度 | 中里署管内の2,423mを廃止。(15,450m) |
昭和35年度 | 金木署管内の全線を廃止。 |
昭和40年度 | 中里署管内の1,600mを廃止。(13,850m) |
昭和42年度 | 青森運輸営林署管内の5,200mの軌道撤去。(37,335m) |
昭和43年度 | 青森運輸営林署管内の37,335mの軌道撤去。43.2.29付け |
昭和43年度 | 中里署管内の全線を廃止。 |